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ストーリー考察 のバックアップ(No.39)
ストーリー説明A
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| ▼ | 説明A |
以下は推測を含む、ストーリーの解釈の一つである。編者:狩人ari
3つのエンディング
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| 赤い月が近づくとき、人[と獣]の境は曖昧となり… |
| メンシスの儀式を止めろ。さもなくば、やがて皆獣となる |
| 狂人ども、奴らの儀式が月を呼び、そしてそれは隠されている 秘匿を破るしかない |
今回、主人公は獣狩りの夜を終わらせたが、ヤーナムはもう獣狩りの必要がなくなったのだろうか?
その答えはエンドBで明かされる。
エンドBはエンドAの裏面であり、続きである。
介錯を受け入れず、ゲールマンを倒すと、主人公はゲールマンの代わりとなってまた獣狩りの夜が始まる。*4
エンドA/Bでは青ざめた血を半分しか回収しきれておらず、狩りを全うできていない。
獣の病蔓延の原因を半分しか潰せておらず、獣狩りの夜はまた起こる。
ゲールマンが「全て長い夜の夢だったよ…」と言う通り、夜はずっと続いている。
これがエンドBの読み取り方ではないだろうか。
なぜエンドAおよびエンドBではまた獣狩りの夜が始まるのだろうか?
獣の病蔓延の原因は赤い月である。
そしてエンドBで分かる通り、月の魔物が現れる際に赤い月が現れる。
獣の病蔓延の原因はメンシスの儀式と、月の魔物なのだ。
HUNTED NIGHTMAREの読み取り方、
そして悪夢とは何を指すのか、を考えていきたい。
悪夢=獣狩りの夜=その原因の上位者たちを狩った。
これが悪夢の意味、HUNTED NIGHTMAREの読み取り方であると考えたい。
エンドAでは獣の病蔓延の原因、メルゴーの泣き声を止めることで悪夢を終わらせた。
エンドBでは悪夢の原因はメルゴーだけでなく、別のものがあることを示唆される。
エンドCでは悪夢の原因であるメルゴーと月の魔物両方をきちんと止め、悪夢を終わらせた。
以上のように、それぞれのエンディングは描写される内容が連続的であり
それぞれを並列に見るのではなく、ひとまとまりの物語として読むことができる。
エンドA、エンドB、エンドCと見るのではなく、はじまりからエンドCまでがブラッドボーンの物語だ。
反論:エンドAでは解放されているのに、エンドBでは解放されていないという解釈は矛盾があるのでは?
回答:エンドAとエンドBはそれぞれ別の物語であると考えます。
ブラッドボーンA、ブラッドボーンB、ブラッドボーンCのようにそれぞれの物語があり、
それぞれにおいて「青ざめた血」の定義が異なった上で、一貫性があります。
同氏はインタビューにおいて、「青ざめた血を求めよ」とはメンシスの儀式を止めることを意味すると答えています。
ここにおいて、「獣の病蔓延の原因を潰せ」「青ざめた血を求めよ」という2つの目的は
全て青ざめた血の空関連一つで説明され、月の魔物は全く関わってきていません。
エンドAで終わる物語は、青ざめた血の空の物語であり、それで完結しています。
月の魔物は認識されておらず、先のような認識論にのっとれば
ブラッドボーンAには月の魔物は存在しないということになります。
そのため主人公は何の問題もなく夜明けを迎えられることができました。
これに対して、エンドBでは月の魔物が登場します。
この点によって、エンドAとの差異が生まれることになります。
月の魔物は認識され、主人公は囚われることとなりました。
補足1. 「青ざめた血」の意味を走り書きを残した時点で知っていたかどうか。
知らなかったと考えるべきなようだ。
OPで輸血を受ける前に青ざめた血について聞いており、その様子からはほぼ無知であるように思える。
コメントにて
「主人公が青ざめた血の空や上位者の血という意味で青ざめた血と書いたとは思えない。輸血爺に尋ねるはずがない」
というものがあった。
答えとしては
「主人公は知らずに青ざめた血と書いた」「結果的に青ざめた血の意味は~だった」となる。
意味を知らないから、その意味にならない、ということにはならない。
結論から言えば、ブラッドボーンをプレイしているプレイヤー視点での発想をここでは取り扱っている。
主人公が知っていたかどうかというインゲーム的発想は取り扱わない。
なぜかというと、考察の骨子となるインタビューで宮崎がプレイヤー視点での解釈の仕方を述べているからである。
件の公式メッセージはプレイヤーが読み取るものであり、どう読み取るべきだったか、をインタビューにて答えている。
必然的に考察対象はプレイヤーの読解視点にならざるをえない。
あえてインゲームで考察を止めるなら、「主人公以外の誰かが青ざめた血という単語だけを伝えた」ということになるだろう。
伝達者自体も意味を知っていたかどうかは不確かである。
ビルゲンワース関係者の誰かが青ざめた血というワードを作り、それが巡り巡って主人公に伝わった。
| ▼ | 説明C |
この作品は作中でも言及されている通り夢を題材にし、 TRPGを意識した作り
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| 狩人様。血の遺志を求めてください 私がそれを、普く遺志を、あなたの力といたしましょう (人形) |
主人公の没個性な状態や意志を題材にした設定など、ロールプレイングを意識させることに重きを置いているため、
マルチエンディングでありながらそれぞれのエンディングにプレイヤーに選んだ理由が求められる。
例えばゲールマンが最後に問いかけた選択肢に関しては「あなたは何故それを選んだのか?」という動機がプレイヤーに求められる。
同じようにエンディング「幼年期の始まり」においても「あなたは何故3本目の臍の緒を使用したのか?」という動機が、
ゲーム中には描写はされないがロールプレイ上での物語では必要になってくる。
これは裏を返せばネタバレやクリア済み等の既知の状態では再現できない、純粋な判断しか出来ない初見時だからこそ成立するエンディングであり、
未取得のアイテム回収や未見エンディングのためといった作業効率からなる選択では物語上成立しないものである。
| 自ら上位者たる赤子となった証。 (「幼年期の始まり」トロフィー説明文) |
プレイヤーが主人公を演じることについて、TRPGはプレイヤーの自由な発想と判断が許される。
ダイスや能力値、GM(ゲームマスター)による一定のルールに沿って、プレイヤーの意志がその後の展開を左右していく。
一方で家庭用ゲーム機やパソコンで動かす、いわゆるデジタルなゲームにおいてはプレイヤーよりも予め作られたプログラムが優先される。
いくらプレイヤーの意志で行動したとしても、それがプログラム上に設定されていなかったら実現されない。
コンピュータゲームはTRPGにおけるプレイヤーの幅広い発想を表現できる媒体ではない。
この作品は確かに多くの点でTRPGのようなロールプレイ要素がふんだんに盛り込まれているが、
プレイヤーの選択を全て叶えられるほどの媒体で作られておらず、ロールプレイを重視すればするほど、プレイヤーの思惑から乖離してしまう歪みが生じてしまっている。
(従来作品の主人公=プレイヤーと大きく違う点は、過剰とも言えるぐらい主人公に個性を持たせていないことと、意志を題材にした物語であることが大きい。)
意志やロールプレイという点を強く意識させる一方で、コンピュータゲームであるが故に、
それぞれのエンディングにおけるプレイヤーの判断が必ずしも思い通りになっているとは言い難い状態になっている。
例えばエンディングは3つ存在するが、その中にはゲールマンが想定したと思われる「悪夢」「狩り」「血」に飲まれた存在へ主人公がなったエンディングが存在しない。
数多のプレイヤーの中には確実に「いつまでも獣を根絶やしにしたい」と考える人もいるはずだが、それに応えるエンディングも存在しない。
そういった歪みの中で描かれた物語の結末は、恐らく製作者がプレイヤーの意志を事前に想定したものであると考えられる。
特に3本目の臍の緒を使用した際のエンディング「幼年期の始まり」は、
アイテムのフレーバーテキストにて「同時に、内に瞳を得るともいう」といった上位者化への示唆をし、そのうえでプレイヤーは使用するという構図になっており、
結果としてゲーム側がプレイヤーは上位者化したいという意志を表明したとみなす。
一方でエンディング「意志を継ぐもの」に関しては、プレイヤーがゲールマンに対してどのようなことを考えているかによって分かれる。
事前にゲールマンの悲痛の叫びを聴いていたのであれば、プレイヤーはそこから解放させたいと思うであろうということを想定して描かれたものだと解釈できる。
ロールプレイを強調しているからこそ、エンディングの動機すらもプレイヤーに委ねられているが、
事前にプログラムさせておかなくてはならないコンピュータゲームである以上、作り手が事前に想定し用意した、狭い選択肢からなる物語になっていると考えられる。
この作品における「夢」は、数あるテキストや描写などから、私たちが思い抱く夢とほとんど同じものとして描かれている。
| 同時に、夢の上位者と交信するための触覚でもある そして、これは実際に、彼らを望む悪夢に導いたのだ (メンシスの檻) |
| 悪夢の上位者とは、いわば感応する精神であり 故に呼ぶ者の声に応えることも多い (カレル文字「月」) |
言わずもがな、この作品は架空のものであり、現実には存在しない。
先述したように夢には理想像という意味もあり、同時に幻という意味もあり、この作品ではそれを同時に描いている節があるが、
エンディングのひとつ「ヤーナムの夜明け」の描写からして、明らかに全ての出来事が夢の中の幻であったかのように描かれている。
それはこのゲームがTRPGのようにプレイヤーのロールプレイを意識させる構造もあいまって、
このゲームでの体験そのものを夢とするメタフィクション的要素を意図して取り入れられているからと考えられる。
すなわち、この作品を購入し遊び、ゲームクリアを目指すというユーザーの心理そのものが夢を体験し、目指すという行為そのものを表しているということ。
主人公の当初の目的とされる「狩りを全うするために」というのも、
獣狩りを題材にしたこの作品そのものを全うするという意味と同じものとして扱っていると思われる。
プレイヤーという提供される側という意味では、作品内での夢と現実にゲームを遊ぶプレイヤーの行為そのものが密接に繋がっていると言えるが、
作品を提供する側からすれば作品の完成を目指し、成し遂げた理想の形がこのゲームであるという解釈もできる。
言うなればブラッドボーンという作品はフロムソフトウェア、ひいては宮崎英高氏の夢の形そのものでもあるということ。
勿論多くのクリエイターたちによって作られたものであり、そしてその大勢があるひとつの目的(作品の完成)に向かって成し遂げたものである。
夢を題材にしたことで、結果として遊ぶ側、遊びを提供する側という両者の立場を表現してみせたものになったと言える。
TRPG的要素に夢という概念をも盛り込んだ今作は、ある種のRPG論を打ち出してきたように読み取ることもできる。
今作でここまでロールプレイと、意志や夢という要素を持ち出してまで表現したかったのは、
恐らくゲームを遊ぶという行為そのものを今一度定義しなおしたかったと考えられる。
エンディング「ヤーナムの夜明け」の描写のように、確かにゲームそのものは幻であり、いずれは現実へと戻る構造になっているが、
その時同時に我々プレイヤーはなにかしらの成長を遂げている。
夢であったにも関わらず、現実のヤーナムで目覚めた主人公がゲーム開始時の状態ではなく、
夢の中で体験し成長した状態のままでいることは、ゲームを通じて成長を遂げたプレイヤーそのものを体現していると言ってもいい。
それはこの作品が従来の宮崎英高作品同様高難易度とそれを乗り越えることを主軸にしたものだからこそだと言える。
あるいは製作者がそう信じ、そうなるようにゲームを作っているという思想を持っているからとも。
まさしくそれは、見る者、見せる者による思想を映像化させる夢と同じように。
一方で、こうしたメタフィクションとしてこの作品を考えた時、プレイヤーが最終的に獣化ないしは狩りに酔いしれてしまうエンディングは、
先述したゲームを通じたプレイヤーの成長とは反対の表現にもなってしまうため、いわゆるバッドエンドが存在しないと考えられる。
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